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ーもしも愛がすばらしいなら

「できないところをみる」ことが前提の言語と「できたこと自体を見る」だけの言語学習

私は、学校ではないところで、いくつかの言語に触れる機会があった。そのどれもとても楽しい思い出でいっぱいで、その言語で交流できた思いがある。

 

でも、そんなことを全く感じない言語がある。それは英語を始めとする学校で習った言語だ。そして多分、言語の学習以外でも同じことが起きている。

 

それは「達成レベル」が設定されているかどうかの違いなのかもしれない、とふと思い至った。学ぶべきこと・知っておくべきことを知っていない=知識が足りていない、を出発点にして、達成レベルに達するための学習は、特に言語という終わりがないに等しい学習にとって、自分のマイナスを埋めていくような作業に感じられる。そして、私は、自分がちゃんと学んでいないと感じられることについて、致命的に弱い。だから、英語学習は(知識として)学べば学ぶほど、コンプレックスが大きくなりやすい。学校以外で学んだ言語は、身につけたら、ただ利用して人とコミュニケーションを図ることができる。その身につけた分だけを見つめられる。テストや達成レベルが設定されていると、どこか欠如の部分が前提になっているように思い込んでしまう。そして、実際にその言語でコミュニケーションを図る体験が乏しい時、時にはその機会があって、利用できたとしてもその体験を乖離して、自分の知識の足りなさを恥じて、自信がなくなり、終わりを意識するがゆえ、途方にくれる。私には、他のことにとっても同じことが起きている。それゆえ、動き出せないことがあるし、好きだったはずのことも、「上手じゃないから」「レベルが低いから」と始めることすら躊躇してしまうことがある。

 

英語の方が学んできた時間も、知識も圧倒的に多い。けれど、苦手意識も抱えているし、「できない」と恥ずかしく思う時もある。目の前の人とコミュニケーションを取ることに意識が向いていたり、文章を読んだりなど、情報を見聞きする強い欲求がある時は、押しやれることも多い。けれど、はなっから、諦めてしまうこともたくさんある。

 

新聞記事の見出しすら満足に読めない、難しい言葉もよく使う言葉も知らない。文法だって学んだことのない言葉は、時に相手に負ってもらうことを素直に受け入れ、流暢にコミュニケーションがとれない自分を、「欠けている」自分ではなく、ただコミュニケーションをとろうという行動をしている自分に感じられる。