いかに私は、社会から与えられた「女性であること」に飲み込まれていたのだろう

Twitterでは、女性の権利が奪われることを、一つ一つ丁寧に確認するような人をフォローしている。多くは女性で、ほとんどの人は肩書など一切出していない。

 

彼女たちのTwitterを見ていて、力をもらっていた。彼女たちの存在を感じて、なんだか社会が捨てたもんじゃないって思えた。

 

でも、しばらくすると、とても驚くことに気がついた。私は社会が私に与えている影響について、特に女性であることについて、それがどれほど大きなものだったのか、全く分かっていなかったということだった。知識では知っているはずだったのに、私の予想を大きく超えて、「個人的なもの」が実は社会的な影響で、私はいとも簡単に、というか避ける手段を持たずして、それらのものに飲まれていることに、ただ気がついていなかった。

 

やっと、色々なことが理解できるような気がした。どうして私が傷ついて、どうしてそれを「私」の責任だと自分を責めるようになったのか。そして、どうして「そうじゃない」という自分の思いとは裏腹に、「あなたの問題だ/あなたが問題だ(!)」と、ありとあらゆる場所で伝えられてきたのか。

 

否定する自分の気持ちを否定していたのは、なぜだったのだろう。あまりにも巧妙すぎて、日常には溢れるどころか、それ以外の隙間がなさすぎて、私は気づけなかった。当たり前のように、自分に取り込んでいた。

 

そんなことに気づいたのは、本当に1つ1つ、おかしいことに声をあげている存在だった。Twitterやブログの声は、すぐにたくさんの人に影響することはないかもしれない。けれど、私の生は確実に救われた。

 

女性の権利が奪われていること、女性に対する暴力。それをおかしいと指摘すること。踏みにじったその力に、その人に、その言動に怒ること。

 

そんな当たり前のことは、いつも悲しいくらいにかき消されていた。それでもずっと怒り、発し、伝えてきた人たちがいたのに、1人の女性である、かつての私のところまでは届かなかった。それは、たくさんの声を押さえ込むくらいに「女性であること」を押し付ける声が大きかったから。そしてかき消されていた声は、大きな声には不都合な真実だったからだ。

そうして私は、暴力もプレッシャーも期待も、自分の背中に背負わされ、それを背負っていることすら気づかずに受け入れ、苦しくなる私を責めていた。そしてそれは、私一人だけではなかったと、私は思う。

 

たくさんの人がー多くは女性がー伝えてくれた言葉が、やっと自分を満たした時、やっとその荷物を背負っていることに気がつけた気がする。自分の肩が痛いのは、重荷に歩みを止めてしまいそうになるのは、その荷物だと、ようやく気づく時だった。

 

だから、私は日々重ねていくその課せられた荷物を、注意して見ておきたい。少なくても、自分が気づいた時、声をあげてもいいのだと、重いと感じても良いのだと、知っておきたい。それが、かつての自分も、今の自分も、そして他の荷物を課せられる人にも、彼女彼らの歩みを妨げるのを防ぐことになるような気がしているから。

 

私は不完全でも、フェミニストでありたい。私をもっと大事にしたいから。誰もが安心して生きるという当たり前の権利を、本当に大切にする社会にしたいから。