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Sketch

ーもしも愛がすばらしいなら

少年と海

小さな物語/創作

少年が幼い頃、彼の母親は言った。

海の奥深くに、たいせつなものがあるの。とてもたいせつなものが、と。

 

数カ月後、少年の母親は亡くなった。少年には父親はいなかった。

 

それから数ヶ月、少年は毎日砂浜で泣きはらし、当たり散らし、涙で顔を濡らした。大切なものがあると繰り返していた母親は、死の一週間前まで、そのことを口にしていた。それ以降は、まったく口から出てこなかった。その情景を思い出すと、まるで海が母親を奪ってしまったような気がして、海には一歩も、足を踏み出さなかった。

 

しかし、更に数ヶ月が経った時、少年は母親の「たいせつなもの」を探そうと、海に入る決心をした。少年はまだ幼かったが、一歩、また一歩と足を踏み入れ、体を海につけた。冷たさが熱く燃えた少年の体に心地良く染みわたった。その小さな腰まで水に使った時、少年は一筋の涙を流した。

 

翌日、少年はまた海へと体を進めた。何度も嗚咽を流したその細い首まで使って、少年は流れる雲と夕陽を見上げた。

 

更にその翌日、少年は体全体を海へと沈めた。母の「たいせつなもの」を含んでいるその海はとても深かったが、少年はいつかたどり着けることを感じた。次の日から、毎日海へと潜り、体全体を動かし、自由に海を移動できるようになっていった。しかし、母の深い海へは、まだまだ遠かった。

 

数ヶ月し、少年が海の表面にも美しさを見出した頃、少年には仲間が現れた。それを世間は「友人」と呼んだ。少年は「友人」たちと、いつまでも続く楽しい日々を、楽しんだ。初めて海で「泳いだ」時だった。

やがて少年は、仲間たちと街でも遊ぶようになった。街はそれほど大きなものではなかったが、若者がつるんで遊ぶには十分な場所に思える大きさだった。

恋もし、ケンカもし、悩み、笑い、海のことを時々思い出した。

 

いつしか少年は、青年と呼ぶに十分な歳になっていた。ある日から、ふと不安が少年の心に忍びこむようになった。街にいても、好きな人といても、本を読んでいても、必ず少年の心に忍び込んできた。

 

少年の心には、いつしか、海がまた広がっていた。美しかったはずの海が。

 

少年は海に戻った。もう、陽の光を浴びて輝く海にも、沈みかける夕陽にも、そのひかりをうけて淡く萌える雲にも、以前ほどの美しさを感じなかった。だけど、砂浜で、少年ははっきりと、海が彼を待っているのだと感じた。

 

一日待ち、翌日、少年は再び海の中へ入った。しばらく入っていなかったが、むしろかつてより不自由で体や心が重くなった分、海の深みに入り込めた。

 

少年は、もう陽の光の届かない、海の一番奥底へとついていた。空気も、そこではもはや少年には必要としないものだった。彼は体を動かしながら、心を動かし、記憶を動かした。足元で蹴飛ばしたものが、母の言っていた「たいせつなもの」だと、瞬間的に少年に気づかせた。その大きな青年となった少年の手には小さすぎるほどの木箱を開いた。

中身は空っぽだった。

少年は満足だった。

 

少年は、海の底で暮らしていくことに決めた。そこで、生涯を共にしていく人とも出会った。時々海の上の方へ生き、キラキラ光る太陽の光や、胸を打つ燃える夕陽、そして薄く茜色に染まった雲を砂浜に座りながら眺めた。

 

やがて、少年には家族ができた。子どもが2人、家族は4人になった。ごくごくまれに、少年は陸へと戻り、彼の昔の家族を想った。

 

子どもが大きくなった頃、少年は母の「たいせつなもの」が入っていたその木箱に、少年のたいせつな人への今までの感謝と愛する想いを書いた手紙を入れて渡した。

 

もう砂浜にも、海の上方にも、行くことはなかった。

 

彼の家族は海の底で、ずっと暮らし続けた。もう海の上を思い出すこともなかった。

 

彼の子どもに子どもが生まれ、彼は昔よりずっと老いていた。

 

共に置いた彼の大切な人と、時々例の木箱を撫でながら、子どもや、孫や、生活のありきたりの話を続けた。時々、あの幼い頃、泣いた砂浜と、襲い掛かってくるのではないかと思うように怖ろしくも思えた海を思い出すようになった。

 

彼の家族は、また新しい家族をつくり、かつての少年は、海の中で生涯を終えた。大切なものを胸に抱えながら。

 

 

のら