Sketch

ーもしも愛がすばらしいなら

あなたが誰を好きになるのかは、他の人が決めることではない

このブログの題名を、ずっと悩んでいる。
そして頻繁に変えていて、それでもやっぱり納得できないので、また変えるのだろう。

 

今はブログの題名に「バイセクシャル」という単語をつけている。
便宜上つけているものだけど、パンセクシュアルの方がいいかなとか、バイセクシャル、と使うより「女の子を好きになる女の子」の方が、自分にはピッタリくる気もする。それでも何かが決定的に足りない気もする。

 

怖さもある。同性を好きだと言っておきながら、異性を好きになる。そんな未来を想定すると、なんだか後ろめたさや、責められているような、勝手な妄想が頭をよぎるのだ。同性を好きになることでの周囲との関係がどうなるかの怖れは言うまでもないけども。

 

定義の意味

レズビアンとは何だろう。同性愛とは、バイセクシャルとは。
そもそも恋愛は自由にすればいい。バイセクシャルという枠組みには違和感もあるし、自分に使うことで消化できない何かを身体に内包してしまったような感覚もある。わざわざ定義付けられる意味とは?

 

もちろんブログに「バイセクシャル」の文字を入れたのは意味がある。「女性として女性を好きになる」自分と、それを否認してきた理由と向き合いたかった。
同性を好きになることは私の全てではない。でも自分自身を否定してきた影響は、自分が考えていたことよりも大きかったから。

 

結局私は自由になっていないのかもしれない。

人が誰を好きになるかは、他の人が決めたりするようなことじゃない。そんな当たり前のことなのに、私は他人や周囲を恐れて、今の自分の行動や気持ちをないがしろにしていた。

 

未来の私が誰を好きになる人。その人が女性か男性か、どんな興味関心をもっているか、近くで暮らす人なのか、どんな人生を送ってきた人なのか、どんな生き方をしている人なのか。そもそも誰かに恋をしているかどうか。

 

そんなことは、その時の自分にしか分からない。今の私にも分からないし、未来の私の隣にいる人にも分からない。ましてや、全くの赤の他人が口を出すような問題でもないのである。

 

いつか私が好きになったその人が、私か誰か他の人を好きになったり、好きにならなかったりすることに対して、私も誰も、口を出せることじゃないのと同じように。