Sketch

ーもしも愛がすばらしいなら

性暴力の責任が自分でなく、加害者にあると気づくこと

あれが性暴力で、自分を責めていた理由が本当には自分の責任ではなかったことに気がつくまで、とても長い時間がかかった。

 

社会も加害者も、責任を私に負わせようとしていたことに気がつくのに、時間がかかった。

 

あの瞬間に自分にとれた行動に、その後自分がした行動に、そもそも私の意図がなかったと、その暴力ゆえの行為だったと、どうしてこんなに長いこと気づけなかったのだろう。どうして、こんなに大事な声が、今まで遠く、掴めないところにしかなかったのだろう。

 

自分がとったその後の行動こそが、性暴力の一部だと気づくのに、どうしてこんなに長いーそして孤独な時間が必要だったのだろう。

 

加害者を擁護する声が溢れているのに、どうして自分の非だと責める声がやまないのだろう。

 

どうして、私は1人だと、立ち向かえる力はあるはずがないの、何もできることはないのだと、信じていたのだろう。

どうして、それがうそだと気づくチャンスを、どうして、そのチャンスがなかったのだろう。

 

何か行動をする時、何を選んでいいのか分からなくなった。起きたことの責任が自分では選んでいなくて、望んでもいなかったとその事実から乱暴に目を背けさせられていたから。自分がこれから取る行動が選んでもいないのに、自分の責任であったと思っていた時には見えなかった。どうして、「選ぶ」という行為が、自分では取り得ない責任と一緒に、悲惨な結末をもたらすと怯えているのに、何が自分をそうさせているのか分からなかったのだろう。

 

どうして、こんなことが未だに続いているのか。私だけに起きたことじゃないのに、私たちは1人だと、力を得ることも、声を届け合うことも、「本当はあなたの責任じゃない」と、伝え合えたはずの言葉を聞くことができなかった。これから、もしくは今、その言葉を必要としている「あなた」に届けることができないのは、いったい何と引き換えにされたことなのだろう。

 

社会はずっと、声の大きな人が、男性に、都合のいい声のためだけに響かせる。レールから外れたようにみえる人の言葉も、結局はその変形バージョンだった。私の力をなくすために、伝えられている言葉だった。女性であることは力を奪われても仕方のないことだと、誰か他の人に自分の生きる力を奪われることに順応であれと。その言葉はたくさんの女性の時間を奪い、心を傷つけ、立ち上がろうとする力を押さえつけようとし続けた。たくさんの暴力と、そして自分の責任でないことを押し付けられたことをゆえの、終わりのない自責の念苦しむ時間を押し付けた。そしてそれに笑って、喜んで加担する人たちを助け続けてきた。

 

 

 

レイプにあった後、私は誰にも言わなかった。自分の責任だと信じて苦しんだ。「そういう状況なら男は当然よ」とメディアが伝えるメッセージに私は追い詰められた。そうじゃない人をたくさん知っていたはずだったのに。

 

「暴力の原因は加害者にあって、あなたは悪くない」

たったそれだけのメッセージを得るのに、気づくのに、どうして私はこんなにも時間が必要だったのだろう。それが自分に向けられると、どうして気がつかなかったのだろう。

 

自分に起きたことを話せないこと。自分の責任だと思わされること。それらが暴力の一部だと最近やっと気がついた。誰かに話さなかったら、そんな大事なことをいつまでも知らずにいた可能性の方が大きくて。気がついてから、今まで分からなかった自分を苦しめ、責め続けてきた行為の一つ一つが、ハッキリと見えた気がした。そんな大切で単純なことが、今まで気づけなかったこと。多い隠しても、伝え続けてくれた人たちの声。そしてそれが私を救ってくれたこと。世界を視るのに、自分の体を心と頭を、使ってもいい。自分を潰す必要はなかった。

不満を押し付けられないで。嘘を拒否して。

過去や現在において、私たちは我慢や理不尽さを強いられる体験をしている時がある。あまりにも長いことそれを求められすぎたから、もしくはそれを嫌だと思う気持ちすら押し込められていて、そして、それがあなたの性格なんだ、役割なんだ、というメッセージを無理やり受け取らされたりする。他人の顔色を伺ったり、自分の気持ちをガマンして押し殺したり。「やるべき」だと言われていることが自分の体調より優先させられたり。

 

けれど、それがあっても、今の私をガマンさせていたり、押し殺すのは、時に恐ろしすぎる暴力をふるう人がいるからで、それを私のせいだとか、性格のせいにするのは、暴力のパーツだ。

 

だから、そんなことには断固として拒否したいし、嘘を押し付けられるのを怒りたいし、暴力だと言い続けたい。

 

どんなに納得させられても、説かれても、本当はそんな扱い、自分にはふさわしくないとちゃんと知っているし、そもそも、そんなことを求められていい人なんて、誰もいない。

 

 

過去のことでも、現在のことでも、自分に押し付けられた、もしくは全力で自分を納得させようとする嘘を、壊すために、私は自分と向き合っているのだと思うし、不満を感じ続けたり、クレイジーなほど、情緒が悪くなったりする。それはきっと、宝物だと思う。

「できないところをみる」ことが前提の言語と「できたこと自体を見る」だけの言語学習

私は、学校ではないところで、いくつかの言語に触れる機会があった。そのどれもとても楽しい思い出でいっぱいで、その言語で交流できた思いがある。

 

でも、そんなことを全く感じない言語がある。それは英語を始めとする学校で習った言語だ。そして多分、言語の学習以外でも同じことが起きている。

 

それは「達成レベル」が設定されているかどうかの違いなのかもしれない、とふと思い至った。学ぶべきこと・知っておくべきことを知っていない=知識が足りていない、を出発点にして、達成レベルに達するための学習は、特に言語という終わりがないに等しい学習にとって、自分のマイナスを埋めていくような作業に感じられる。そして、私は、自分がちゃんと学んでいないと感じられることについて、致命的に弱い。だから、英語学習は(知識として)学べば学ぶほど、コンプレックスが大きくなりやすい。学校以外で学んだ言語は、身につけたら、ただ利用して人とコミュニケーションを図ることができる。その身につけた分だけを見つめられる。テストや達成レベルが設定されていると、どこか欠如の部分が前提になっているように思い込んでしまう。そして、実際にその言語でコミュニケーションを図る体験が乏しい時、時にはその機会があって、利用できたとしてもその体験を乖離して、自分の知識の足りなさを恥じて、自信がなくなり、終わりを意識するがゆえ、途方にくれる。私には、他のことにとっても同じことが起きている。それゆえ、動き出せないことがあるし、好きだったはずのことも、「上手じゃないから」「レベルが低いから」と始めることすら躊躇してしまうことがある。

 

英語の方が学んできた時間も、知識も圧倒的に多い。けれど、苦手意識も抱えているし、「できない」と恥ずかしく思う時もある。目の前の人とコミュニケーションを取ることに意識が向いていたり、文章を読んだりなど、情報を見聞きする強い欲求がある時は、押しやれることも多い。けれど、はなっから、諦めてしまうこともたくさんある。

 

新聞記事の見出しすら満足に読めない、難しい言葉もよく使う言葉も知らない。文法だって学んだことのない言葉は、時に相手に負ってもらうことを素直に受け入れ、流暢にコミュニケーションがとれない自分を、「欠けている」自分ではなく、ただコミュニケーションをとろうという行動をしている自分に感じられる。